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project story

東日本大震災からの復興へ。
私たちNISSOができること。

project outline

災害復旧工事~東日本大震災~ 東北を襲った未曽有の大災害。 復興に向けて歩む街と人の物語。

2011年3月11日14時46分。三陸沖を震源地として発生した地震は、最大震度7、地震の規模を示すマグニチュードは観測史上最大の9.0。これまでに経験したことのない大地震が東北を襲った。地震によって家屋は倒壊し、道路には亀裂が発生。電気・ガス・水道・通信などのライフラインはストップ。地震の影響で発生した津波によってさらに甚大が被害が出た。加えて福島第一原子力発電所での事故が発生。放射性物質の影響を受け、周辺に住む多くの人々が長期的な避難を余儀なくされた。一変した街の景色。先の見えない不安。多くの悲しみ。そんな状況の中でも、人は立ち上がり、少しずつ歩みを進める。今、自分ができること。今、NISSOができること。その「今」の積み重ねが、復興への歩みになる。東北の「今」と向き合い歩み続けたNISSO の10年間を追う。

profile

  • Takeda Noriaki

    武田 憲昭

    仙台支店 営業部 部長

    宮城県立白石高等技術専門学校を卒業後、1990年に入社。仙台機材センターに配属後、長年営業としてキャリアを築き、現在は仙台支店の部長を務める。震災後は、北東北営業所の立ち上げメンバーとしても活躍し、宮城・岩手エリアの復旧工事に携わる。
  • Kei Kimura

    木村 圭

    北東北営業所 所長

    東北電子計算機専門学校を卒業後、1993年に入社。仙台支店に配属され、長年営業としてキャリアを築き、現在は北東北営業所の所長を務める。震災後は、北東北営業所の立ち上げメンバーとして活躍し、仮設住宅や三陸道など様々な復興工事に携わる。
  • Kazumi Suzuki

    鈴木 一美

    福島営業所 所長

    福島北高等学校を卒業後、1992年に入社。福島営業所に配属され、長年営業としてキャリアを築き、現在は福島営業所の所長を務める。震災後は、インフラ工事や建物の復旧工事、仮設住宅の設置など、福島の復興に向けた様々な工事に携わる。

Episode.1

2011年3月11日。
未曽有の大震災が東北を襲う。

震災当日、仙台支店の武田は営業で秋田に出張していた。その帰路、車の運転中に地震は起こった。高速道路は通行止め。ガソリンスタンドには長蛇の列。仙台にある自宅に着いたのは真夜中のことだった。「停電でライフラインがすべてストップし、情報が遮断されていたので、津波のことも後から知って。これからどうしたらいいのか途方に暮れた状態でした。」そう語る武田は、翌日に自転車で2時間かけて仙台支店を訪れた。「棚から色々なものが落ちていてオフィスは大変な状態。まずはオフィスと自宅の片づけからのスタートでした。電話が通じるようになってからは、お客様へ安否確認の電話や、会社から供給された支援物資をお客様に配ったりもして。とにかく今できることを必死にやってましたね。」

当時、仙台支店に所属していた木村もまた、部下と車での移動中に震災にあった。「停電で信号機が止まっていて渋滞が発生していました。道路にも亀裂が入っていて、自宅に着いたのは24時を過ぎたころ。家族の無事を確認してひとまずホッとしました。」木村にとって、地元でもある街の惨状は信じられないものだった。「昔から見てきたいつもの風景が、何もない状態になっているところもあって。全然知らない土地のように思えました。街の復旧としては、まずはガレキの撤去からはじまり、被災した建物が崩れないように緊急措置として崩壊防止用の足場を設置したりしました。自分たちの仕事で何かできることはないか、いつも考えていましたね。」

一方、福島営業所の鈴木は、大きなスポーツイベントを間近に控え、震災当日はその会場で足場の組立てをしている最中であった。地震により天井が剥がれ落ちるなどしたが、幸いにも現場での怪我人はなく、事無きを得た。その後、福島第一原子力発電所の事故を受け、妻の実家である秋田へ一時避難することになる。「とにかく情報が錯そうしていて、どうすればいいのか分からない状態が長く続きました。福島に関しては、放射線物質の影響もあり、応急復旧工事がはじまったのはしばらく経ってから。まずは橋梁の仮支え工事など安全の確保とインフラの復旧が急務でしたね。」

すべての人が初めての経験に戸惑いを見せていた。先行きが見えない中、一人ひとりが手探りで今できることを必死に考え、行動に移していた。

Episode.2

北東北営業所の開設。
仮設住宅など復興業務が本格始動する。

2011年7月、日綜産業は岩手県に北東北営業所(当時:岩手営業所)を開設させた。開設メンバーになったのは、武田と木村の二人。仙台支店だけでなく、岩手にも拠点を持つことで、より包括的に災害復旧工事をサポートしていくことが狙いだ。「災害復旧に当たってまず実施したことは、仮設住宅の設置です。日綜産業では行政と連携し、宮城・福島・岩手に仮設住宅を納入しています。私は岩手での仮設住宅設置に向けての対応を進めていきました。」そう語る武田は、しばらく宮城と岩手を往復する日々が続いた。仮設住宅以外にも、被災した建物の復旧工事やインフラ整備など、仕事は数えきれないほどある。朝から晩まで電話は鳴りやまなかった。

同じく北東北営業所で仮設住宅の納入を進めていた木村は、仮設住宅が完成してしばらくしてから生活の様子を伺うために、現地へと足を運んだ。「仮設住宅を訪れた時、年配のおじいさんと少しお話しをしました。震災で家がなくなり、長年連れ添った奥様を亡くされてしまわれたそのおじいさんは、じっと遠くの海を眺めていました。『住むところをつくってくれてありがとう』そう笑顔を見せてくれたおじいさん。その言葉と海を眺める悲しげな表情が、今でも忘れられません。」震災から数ヶ月、少しずつ、でも着実に、復興に向けた工事は進んでいた。でも、あの時から立ち止まったままの想いも確かに存在する。木村は語る。「前を向く人、立ち止まったままの人、色々な想いを抱えた人がいます。私たちの仕事が、どんな形でもいいので、その人の力に少しでもなれたらいいなと思っています。」

Episode.3

原発事故で遅れる復興。
緊急事態に仲間たちが駆けつける。

鈴木が所長を務める福島営業所では、福島第一原子力発電所の事故の影響で、数々のトラブルに見舞われていた。1つは放射線の問題である。当時は放射線に関する情報が錯そうし、危険だと判断するための基準が不透明であった。そのためお客様から発注を受けても、安全性が確保できないため足場・仮設資材を提供することが出来なかった。そこで、日綜産業では放射線に対する社内基準を策定し、製品供給のガイドラインをつくることにした。「福島は自分が住む街でもあるので、復旧工事を進めることは自分や家族のためにもなります。進めたくてもできないという歯がゆい気持ちを抱えていたので、早急に社内基準を策定してもらえて本当に助かりました。」そう語る鈴木は、不安と隣り合わせの中、復旧工事に携わる者としての使命感を持ち、業務に当たっていた。

2つめの問題は、風評被害である。当時、東北全体でトラックの数が不足していた。その中でも福島のトラック不足は深刻だった。放射線に対する風評被害が大きく、仮設機材を運んでもらうためのトラックが見つからない状態が長く続いた。「お客様に取りに来てもらったり、大変な日々が続きました。必要な工事はたくさんあるので、一人では業務が追い付かない状態でした。」そんな鈴木のもとに、頼れる助っ人がやってきた。全国から日綜産業のメンバーが有志で集まってきてくれたのである。「とにかく大変な状態だったので、本当に助かりました。正直みんなも不安があったと思いますが、福島に来てくれて仕事をサポートしてくれたことが何より嬉しかったです。」

Episode.4

震災から10年。
3人が語る復興への歩み。

震災から10年。復旧工事は進み、街並みもこの10年で大きく変わった。震災から今日までを振り返り、武田はこう語る。「この10年間、地元の材工業者とタイアップし、たくさんの復旧工事に携わってきました。その中で、大変な時期を一緒に乗り越えた仲間として、地元企業との強い絆が生まれたと思います。この絆を大切にしながら、この街に貢献できる仕事をこれからも続けていきたいです。」

震災直後から始まった「三陸道」復興工事。三陸沿岸地域の物流を担う復興道路としてスタートしたこの工事も2021年12月に全線開通を迎えることとなった。10年もの間、この工事に携わってきた木村も喜びの表情を浮かべる。「これまで東北の沿岸部には高速道路と呼ばれるものがなく、救援に行くにも、避難するにも、とにかくアクセスが悪かったんです。でも、この三陸道ができたことで、復興が大幅に進み、そこに住む人々の安心にもつながったと思います。本当の意味での復興はまだまだかかると思いますが、復興を支える大きな事業に携われたことで、少しは地元に貢献できたかなと思っています。」

福島に対する風評被害は今なお続き、いまだに県外へ避難している住民も多い。震災から10年が経ち、街はきれいに整備されたが、心の面での復興はもう少し先になるのかもしれない。10年間、福島を間近で見守ってきた鈴木はこう語る。「生まれ故郷である福島の再生に関われたこと。震災以降に起きた災害の復旧工事に関われたこと。災害を未然に防ぐ工事に関われたこと。これらのことは、すべてこの仕事だから関われたことです。地元に貢献できていることを本当に嬉しく思いますし、それが仕事への誇りとモチベーションにつながっています。」

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